屋根、塗装、防水、外構等の工事が不順な天候で遅れに遅れていましたが、今週は晴れ間が続くようで工事が進みそうです。

しかし、今年は梅雨入りが早くなりそう、またまた雨に悩ませれる日が続きそう。

我家のベランダに父親が残してくれたバラが今年も咲き始めました。

父親が亡くなって35年、毎年ピンクの可愛いバラが咲き乱れます。

バラを眺めていると、父親の顔が浮かび、昔のことが走馬灯のように思い出されます。

父親は一級建築士で設計事務所を営んでいました。

私は父親の仕事が嫌で、中学を卒業すると日本料理の板前になりたくて丁稚奉公するお店まで決めていました。

ところが後を継いでほしい父親は「中卒でどうする建築科に行け」と大反対。

私は「高校は行く、でも建築科は嫌や」と普通科の高校へ進学。

高校卒業前には「俺は板前はあきらめたけど、教師になる」

この言葉に父親は激怒、「教師なんで駄目だ、建築の専門学校に行け、親の言うことが聞けないなら勝手にしろ」

私は建築関係の仕事はしたくなかったのでです。

結局、東京の大学へそれも経済学部に入学しました。

父親が「一斉援助しないから、行くなら自分の力で行け」

学費、下宿代全て自分で・・・・幸い歌が上手かった(他人の評価ですが)あるクラブの歌手に雇われました。

アルバイトとしては破格の収入があり、生活のため学校のためと毎晩唄い続けましたが、三年生の終わるころ、唄うのがたまらなく嫌になり止めることに、クラブのママさんから「あと一年で卒業だから辛抱したら・・・・・」

収入が途絶え大学は4年に進めず中途退学しました。

飲まず食わずの中、就職活動の結果、外資系の医療機器メーカーに入社することが出来ました。

学歴にコンプレックスのある私は人の何倍もの努力を重ねる毎日でした。

その後は37歳でコンサルティング会社の社長に招かれ、50歳の時サンメイトの社長に就任しました。

サンメイトに入社して23年、今は社長も退き、のんびりと仕事の手助けをしています。

しかし不思議ですね、あれほど父親が勧めていた建築関係の仕事から逃げ続けていたのに、今はリフォーム等の建築の仕事が大好きで人生が終わるまで続けたいと思っているのですから。

私は二度転職しましたが、自分で決めた道に何の後悔もありません。

今年も咲き乱れる父親のバラに向かって「親父、これで良かったんだよね」と話しかけています。